内容紹介
筆者は戦前、1941年と43年に二度、中国大陸に行った経験がある。
初回は熊本の学校在学中で修学旅行兼見学で、五月から八月にかけて、主として旧満州の黒龍江省の薩爾図の実験農場にいた。今では小さな駅舎が記念物としてわずかに草原時代のサルトを偲ばせるほかは、中国一の石油生産基地、一大工業都市(大慶市)として発展している。夕方になると町の所々から、ロシア正教会堂の鐘の音が一斉に聞こえてくるハルピンのたたずまいは、初めて訪れた我々の目にはどうしても西洋の都会にしか映らなかった。それよりも新京(今の長春)や奉天(今の瀋陽)の混雑した薄汚い中国の町が印象深く今でも脳裏に刻み込まれている。
1943年、私は再び中国の華中地区(上海・南京・徐州)で二年ほど農業技術指導員として働いた。日本軍占領地区の中国庶民の生活は陰惨を極め、食糧を生産する農民といえども食うか食わずの飢餓線上であえいでいる状態であった。今ではただ「国破れて山河あり」の凄絶なる印象だけが、深く深く印象づけられているほかは、思い出すだけでも心痛ましい。
この様にして若き時代の筆者の印象に残った中国という国の姿は、どう言っても「悲惨」の二字以外には表しようのないものであった。にもかかわらず、筆者にはどうしてもこの国が忘れられないのだ。いつの日かじっくりと中国の真の姿を見ようと心に誓った。
そして、1985年秋、ついにその願いはかなえられた。1993年までの8年の歳月を費やして、中国全土30の省区のすべてに訪問したのである。
だが、筆者はそれに満足してはいられない。なぜなら自分が成し得たことと言えば、わずかに中国960万平方キロの大地のあちらこちらを見て回ったにすぎないからだ。「見た」ということは「分かった」とは等しくならない。むしろその果てしない皮層を見たために、その内面に存在する一二億の人間を含む自然生態系の活動とその未来像に、より深い興味をそそられたのである。筆者は今、中国をもっともっと分かりたいという意欲に燃えている。これこそは筆者の余生をかけての仕事であり、自分への鞭撻でもあるのだ。
それに先立ち私には、一つ、言いたいことがある。
中国は、若き世代が失ったものを早く取り戻さなければならない。
外敵から祖国を守ろうとし、病んだ祖国を背に負いながら、それでも真摯一徹に生きる若者の姿をかつて毎日見ながら、そして彼らと付き合ったことを筆者は50年後の今でも決して忘れたことはない。
だが経済状況が何十倍も良くなった今日、もはやその様な真摯さを持ち、お互いに胸襟を開いて話せる若者は余りいない。その代わり利口そうな口をたたき、人を煙に巻こうとする若者が多いのに驚かされる。
社会主義中国は、古いが、しかし素晴らしかった、昔の大切な何かを失っている。未来中国を担う己を信じ他人からも信じられ、そして社会に責任を持つ真摯さに欠けているのだ。それを早く取り戻さなくては、中国は世界一等国はおろか、現代国家にさえなり得ないであろう。
近年、台湾政府が大陸との旅行や種々の交流を許すようになってから、筆者は何冊かの本を台湾で出版した。そこで筆者はただ自分が大陸で見聞きしたことを努めて忠実に伝えただけである。
名古屋に住む末娘の黄6娜およびその親しい友人たちの好意あふれるすすめでこの本を書くことで、筆者は極めて難しい問題に直面することになった。企画者側が私に与えた題目が「中国の実態」だったからである。
実態を語る以上、それは何かつかみどころのあるものでなければならない。ところが、既に前置きしたように私は正にそれをつかもうと手掛けたところである。その上、中国は今あたかも創始以来最も大仕掛けな、そして奇抜で大胆な事業を試みている最中にある。時々刻々の事象が各々のすさまじく転換しており、人々の興味をそそり、それへの参加を誘うに十分な魅力にあふれている。正直に言ってそれは筆者である私自身にとっても一つの勉強であるのだ。
しからばいかにして本書企画当事者の意に沿うべきか。
過去と同じ方式で自分が見たことと聞いたこと、加えるに多少なりとも分かり始めたことなど、一部始終を基礎にして、その上で日本の読者の皆様方の道案内役として、一緒に勉強(見習)するつもりで一応書き上げた。不足や不明のおとがめはもとより覚悟の上であり、故にむしろ識界の教えを請う次第である。
この本がそれでも、現代中国の真実を知りたい読者の方々にわずかなりとも参考になるものがあれば、筆者にとって無上の光栄である。
(「はじめに」 より)
書籍情報
編著: 黄 順興
定価: 1,456円(本体価格)
発行: 1995年10月24日
体裁: B6判 252頁
出版社: 株式会社スクリーンプレイ
ISBN978-4-89407-130-8